| ○魚津せり込み蝶六 | ||
| 【正調舞台音頭】(魚津四季) | 【歌詞】 | |
| 【本唄古代神】 | 【歌詞】 | 【解説】 |
| 【念仏口説きと窪田氏について】 | 【解説】 | |
| 【二十八日口徳について】 | 【解説】 | |
| 【二十八日口徳】(歓喜嘆) | 【歌詞】 | 【解説】 |
| 【親鸞聖人について】 | 【解説】 | |
| 【蓮如上人について】 | 【解説】 | |
| ○盆踊り詞章集について | ||
| ★蝶六川柳 | 【歌詞】 | |
| ○口説き節の詞章 | ||
| 【お吉清三口説き】 | 【歌詞】 | |
| 【愛本粽口説き】 | 【歌詞】 | |
| 【見真大師口説き】 | 【歌詞】 | |
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【石童丸口説き】 |
【歌詞】 | |
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【白井権八小紫口説き】 |
【歌詞】 | |
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【魚津蛇石口説き】 |
【歌詞】 | |
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【阿波の鳴門巡礼おつる口説き】 |
【歌詞】 | |
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【親鸞聖人御難儀苦業口説き】 |
【歌詞】 | |
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【新お吉・清三口説き】 |
【歌詞】 | |
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【鈴木主水白糸口説き】 |
【歌詞】 | |
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【魚津小町おしげの恋】 |
【歌詞】 | |
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【佐倉宗吾一代口説き】 |
【歌詞】 | |
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【西院の河原地蔵口説き】 |
【歌詞】 | |
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○短文集 |
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【祈願口説き】 |
【歌詞】 | |
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【出戻り口説き】 |
【歌詞】 | |
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【器量の良い娘】 |
【歌詞】 | |
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【頼りづくし】 |
【歌詞】 | |
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【好きづくし】 |
【歌詞】 | |
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【豆づくし】 |
【歌詞】 | |
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【かかづくし】 |
【歌詞】 | |
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【上手づくし】 |
【歌詞】 | |
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【旨いづくし】 |
【歌詞】 | |
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【困るづくし】 |
【歌詞】 | |
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【言うは尽くし】 |
【歌詞】 | |
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【炭焼きづくし】 |
【歌詞】 | |
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【染めづくし】 |
【歌詞】 | |
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【髪づくし】 |
【歌詞】 | |
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【髪づくし】 |
【歌詞】 | |
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【毛づくし】 |
【歌詞】 | |
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【鶴と亀】 |
【歌詞】 | |
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【殿ま口説き】 |
【歌詞】 | |
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【松づくし】 |
【歌詞】 | |
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○祭文文句 |
【歌詞】 | 【解説】 |
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○流し川崎 |
【歌詞】 | 【解説】 |
【魚津せり込み蝶六】正調舞台音頭(魚津四季)Top ▲
作・道音林松(昭和56年)
(前唄)
ハア、ハイヤーアア、アア、アア
ハーアア、アア、イーイイイヤアアアイ
ハーアア、アア、ヨーイヤヨーイ
(はやし)
ヨーイヨーイ
(流し川崎)
ハーハイヤーア ハアイーヤアーワ
越中魚津の蝶六踊りよ
目出度い 踊りでこれわいどうじゃい
(はやし)
ソホリヤヨイ
ハイナハ イヤアイ
魚津よいとこ 住みよい所よ
旅の鳥さえ アノ所帯もつよ
ちょいと一座の 皆様よい
(はやし)
ソホリヤヨイ ハイヤ
魚津名所で これわいどうとこへんなは
(はやし)
ハ アンリヤハイトサーハ
ヨイヤコノショイ
おらあがさーはあよー
おいやい
これからこれわい
なにごーと
え何用とさてたずねりや
春の角川 布子の谷じゃ
山がかすめば 山菜摘みよ
遠い歴史の 金山跡に
流れ止めた さてダムの水
山の肌さえ 素敵じゃないか
影すあの娘の 目許が可愛い
えさてこれから
これさなーあにごと
はいとさあはよーい
(はやし)
ジャントコイ ジャントコイ
はりやその勢では これわい
どうとこへんなは
(はやし)
ハ、アンリヤハイトサーハ
ヨイヤコノショイ
おらあがさーはあよー
おいやい
これからこれわい
なにごーと
え何用とさてたずねりや
夏の潮風 水族館に
魚津市の花 鹿乃子の百合よ
十二なる里 心をつなぎ
魚津まつりの 蝶六踊り
夏の夜空に 流れる音頭
君もあなたも お囃子たのむ
えさてこれから
これさなーあにごと
はいとさあはよーい
(はやし)
ジャントコイ ジャントコイ
はりやその勢では
これわいどうとこへんなは
(はやし)
ハ、アンリヤハイトサーハ
コイセコノショイ
(ちょんがら)
やーれやれ、やーれやれ
一座の皆様方よ
秋の味覚は 魚津のりんご
早く開けた 天神遺跡
お湯は金太郎 北山薬師
五穀豊饒 稲穂の実り
恵みふくらむ 魚津の里よ
お国自慢は 蝶六踊り
(はやし)
ハ、ヨイトコヨイトコ
はりやその勢では これわ
いどうとこへんなは
(はやし)
ハ、アンリヤハイトサーハ
ヨイヤコノショイ
おらあがさーはあよーおいやい
これからこれわいなにごーと
え何用とさてたずねりや
冬の僧ヶ岳 僧眠らせて
魚津港よ 経田漁港
海に乗り出す さて男伊達
開け文化も 世界に伸びよ
せり込み蝶六 みな出て踊れ
踊るゆかしさ 香りを添える
えさてこれから
これさ なーあにごと
はいとさあはよーい
(はやし)
ジャントコイ ジャントコイ
(後唄)
はい目出度 めええでええたあ
ああーああの
あの若の松さあああまああーあよーい
枝も栄える 葉もしいげええるーい
(はやし)
ソリヤ 目出度い踊りじゃ
イヤサカ サッサ
布子谷…山合いを流れる角川を中心にして鹿熊村から出村までの田園の地下に、昔からなまあたたかい水が年中流れている。「すり鉢の底」と言われている。
十二なる里…魚津市の校下。市内12校下がある。
五穀…重要な穀物、米・麦・あわ・きび・豆の五種の事。
豊饒…穀物がよく実ること。豊作。
僧ヶ岳…魚津で2番目に高い山。
僧ねむらせて…冬の間、雪にとだえる事。
菊川与次郎氏(明治29年生)は大正6年上野方石垣村の道路工事の際に旅の老婆から念仏口説きを習ったという。極楽浄土の有様を歌ったありがたい詞章である。昭和45年7月日本万国博出演用の詞章として、窪田見次氏(上野方大海寺野出身 大正2年生)の修正により作成されたものである。
窪田氏は大変蝶六音頭が好きな方でいつも若手音頭育成を願っておられた人である。また窪田氏は当時蝶六音頭会の発足人であり研究家でもあった。
○窪田見次氏の作
・石動丸口説き…唄伝承者 宮坂彦成
・おしんの苦労…唄伝承者 宮坂彦三
昭和58年郷土民謡みのり会表彰受賞
昭和61年魚津せり込み蝶六保存会表彰受賞
文明3年(1471年)蓮如上人は、北陸各地を教化するにつき、御和讃など沢山お作りになり門信徒や信仰者に唱和させてその布教に努めたと言う。信後相続歓喜嘆の中に書かれている二十八日口徳は昔から庶民に親しまれ、盆踊りにその口徳を聞き、あまりの有難さに合掌する人が多かったといわれている。現在は昔ほどではないが、山間部に行くと手を合わせて音頭を聞いて、おいでる人も見うけられる。この二十八日口徳は第三代覚如上人の作と言われてきたが、明治39年近角常観、南条文雄らの調査の結果、蓮如上人の作と決定する。小川寺光学坊住職、大谷清瑞氏の話(明治生)、二十八日口徳の詞章内容を説明しますと@茶呑み話の意味、A高祖聖人御苦労の事、B他力門機法一体の3つの意味からなりたっている。また二十八日口徳という名の意義は親鸞聖人の「命日」からつけられたものである。
尚、現在伝える信後相続歓喜嘆は明治28年京都書林西村護法館蔵版から再発行したもので特に本願寺派の家などに多い。
蝶六保存会では真宗念仏踊りの詞章として大切に保存をし後世に伝承していくよう努めている。
ここに同行の 御茶呑み咄し
聞けば誠に 御縁となりて
二十八日 御日柄なれば
今日は緩りと 御茶呑むまいか
あまり渡世の 世話しき儘に
売るの買うのと 日夜を明かし
済むの済まぬと 子孫のことに
腹もたてたり 笑いもしたり
罪業ばかりで 月日をくらし
大慈大悲の 御恩の程に
懈怠ばかりで 年月送る
今日も空しく 過ぎ行くことは
電光稲妻 矢を射る如く
今日の御恩が 有るまいならば
今に無常の 日暮れとなりて
耳も聞こえず 眼力きかず
足手まといの 妻子や孫や
金銀財宝 家蔵田畑
山も林も うち捨ておいて
持つもならねば 持たせもならず
死出の山路や 三途の大河
阿傍羅刹に 追い立てられて
一人泣く泣く 閻魔の庭に
業の秤や 浄玻璃鏡
向うその時 いい訳たたず
右も左も 剣の山よ
追いつおわれつ 幾千万刧
焼かれ焦がされ 身を切り裂かれ
こぼす涙に 天をば仰ぎ
大地たたいて 七転八倒
泣けど叫べど その甲斐ないと
聞くも恐ろし 地獄の苦患
逃れがたきは 我身の上ぞ
数の仏の 御慈悲にもれて
とても叶わぬ 悪人なりと
見捨てられたる 大罪人を
阿弥陀如来は 助けん為に
五刧思惟に 思いをくだき
阿鼻の炎や 紅蓮の氷
毒の中にも 幾千万劫
忍び難きを 忍ばせ給い
私一人の その身代わりに
あなた一人が 身に引き請けて
一願積んでは 衆生をがために
一行積んでも 女人がためと
汗と膏の 御修行中に
施し給いや 御眼は
一恒河の 砂の如く
与え給いや 御身の耳は
毘富羅山の 如くとなりて
切らせ給いや 御身の肉は
千須弥山の 如くとなりて
捨てさせ給いや 御身の骨は
大鉄円山 如くとなりて
はがせ給いや 御身の皮は
三千世界の 大地の如く
しぼらせ給いや 御身の血汐
四大海より 多しと御座る
わけて女人は 疑い深く
五障三従の さわりがあると
女人成仏 誓いをたてて
重ね重ねの 御苦労なるぞ
釈迦の往来 八千やたび
弥陀の本願 聞かさん為に
かわるがわるに 七高僧と
唐や天竺 日本までも
渡り給いし 仏の御慈悲
知らぬ我身に 知らさん為に
高祖聖人 藤原氏へ
誕生まします 松若君の
わずか御年 九才の春に
輿や車を 乗り捨て給い
栄華栄耀の 御身の上が
娑婆は暫しと 無常をや観じ
滋鎮和尚の 御弟子となりて
比叡の御山へ 登らせ給い
二十年来 御修行中に
薬師如来へ 千日参り
それが足らいで 都のあなた
慈悲を司の 六角堂へ
寒さ夜な夜な 百夜の間
三里余丁の 山坂道を
雨やあられや 雪踏み分けて
谷を越えさせ 加茂川越えて
女人成仏 近道あらば
教え給えと 心に祈誓
さても不思議や 御夢想ありて
御告げあらたに 名も吉水の
清き流れの 御身の上が
妻や子供に 交わり給い
在家同事の 御身とならせ
人に笑われ 恥しめられて
義理も人情も 我等が為に
教え下さる 念仏門が
南都北嶺の 嫉みに依りて
京も田舎も 厳守停止
師弟諸共 御身の仇と
土佐や越後に 流され給い
輿や車の 御身の上が
墨の衣に 墨袈娑懸けて
紺地草鞋を がまにて脛巾
笈も背中に もったいなくも
杖と笠とて 御苦労ありて
風の吹く夜も 雪降る中も
石を枕に 御難儀かけし
足も血潮に 北国関東
二十年余ヶ年 御化導ありて
弥陀の本願 聞かさにゃおかぬ
大慈大悲の 念力故に
こんな愚鈍や 手強き者が
今は邪見の 角をば折りて
御恩御慈悲と 細々ながら
耳を傾け 心を鎮め
聞く気出来たは 只事ならず
口に述べるも 恐れがあるぞ
八家九宗と 並ぶる中に
分けて我等が 御縁が深い
かかる御苦労 あるまいならば
こんな邪見や 慳貪者が
弥陀の本願 聞き分けましょうか
京も田舎も 日本国中
御化導あまねく 広まり給い
此処に居ながら 畳の上で
他力不思議の 南無阿弥陀仏
機法一体 願行具足
助け給えも 助かる法も
何もかも皆 此御六字に
こめて収めて たたんで巻いて
是をやるのじゃ 貰えよ早く
貰えさえすりゃ 悟りの都
楽の身となる 因じゃよ貰え
貰え貰えと 御勧めなさる
弥陀の本願 六字のいわれ
それを貰うに 手間暇いらず
知恵もいらねば 才覚いらず
富貴貧賤 姿によらん
罪も報いも 如来に任せ
かかる者をと 御受けが出来りゃ
あとと待たせず その場ですぐに
摂取不捨とて 光明の中に
修め給いし 大慈の不思議
最早何時 命が尽きよと
姿婆の因縁 終わるやいなや
花の台で 神力自在
かかる事ばり 聴聞すれば
娑婆は暫く 夢見し如く
善きも悪しきも 宿業次第
彼尊任せと 此の世の事に
ままにならぬが 御縁となりて
欲しい惜しいの その下からも
思い出しては ご恩の程に
命ながらえ あるそのうちに
仏祖知識の 御恩を学び
国の掟を 必ず守り
親に孝行 おこたるまいぞ
後生大事も 此の世の義理も
知らぬ我身に 教えの知識
かかる御恩を 御恩と知れば
善きにつけても 悪しきにつけて
思い出しては 行住坐臥に
唱えまいかや 只南無阿弥陀仏
罪業…罪となる悪のおこない
大慈…仏の広大な慈愛
大悲…衆生の苦しみをすくう。仏の大きな愛の事。
懈怠…なまける事。おこたる事。
電光稲妻矢をいる如く…きわめて短い時間を言う。
無常…人の世はいつも変化してはかない事。
死出の山路…死後の世界にあるというけわしい山や道を言う。
阿傍羅刹…悪い魂の一種で人をまどわし食うと言うもの。後に仏教の守護神となり夜叉とともに毘沙門の眷族とされる。
浄玻璃鏡…地獄の閻魔王の役所にあって死者の生前のおこないを写し出すという鏡。
七転八倒…いくども転び倒れる事。ころげまわって苦しむ事。
地獄の苦患…苦しみとなやみの世界。のたうちまわる事。
御慈悲…仏が人々に楽をあたえ苦をのぞく事。いつくしみ。なさけ。
阿弥陀如来…西方極楽浄土ですべての人を救うと信じられている仏。その名を唱えれば死後に必ず極楽にいけると言われる。真宗、浄土宗の御本尊。
五劫思惟…法蔵比丘は四十八願を立てて五劫という永遠に近い思索をかさねて阿弥陀如来になった。その四十八願が五劫思惟の願である。
阿鼻の炎…阿鼻地獄。地獄におちて苦しみ泣き叫ぶむごたらしい状態を言う。
紅蓮の氷…紅蓮地獄、八寒地獄の一つ。ここにおちた者はひどい寒さのため皮膚が裂けて血がふき出し、その血がまっかな氷になると言う。
施す…広くあらわす。めぐみをあたえる。
如く…たとえの意をあらわす。
一劫…百六十キロメートル四方の大石を三年に一度、天女が降りて、衣でぬぐい、ついに大石が磨滅してしまう期間を一劫という。
五障三従…女は「梵天」「帝釈」「転輪聖王」「仏」などになる事が出来ないと言う事。仏道修行のじゃまとなる5つのもの。「煩脳」「業」「生」「法」「所知」の五つを言う。「三従」三の服従すべきことの意で婦人の生涯について言う。一は家に居りては父母に従う。二は嫁としては夫に従う。三は夫死しては子に従うことで、この三あるため、婦人は常に不自由で、佛道修行に困難なるものとする。
釈迦…仏教の祖。
七高僧…「龍樹」「天親」インド「曇鸞」「道綽」「善導」中国「源信」「源空」日本親鸞聖人が師とした高祖。
唐…中国のこと。
天竺…インドのこと。
松若君…聖人の幼名。
慈鎮和尚…親鸞聖人の最初の師。父は関白藤原忠道、幼くして出家「天台宗」
百夜…百日百夜の事。
女人成仏…女の人が、なやみからはなれ仏の位を得る事。
心に祈誓…神仏にいのり、誓いをたてること。
御夢想…六角堂にて百日祈願の際にうつつ夢を見る。夢と現実との間の状態を言う。
南都北嶺…奈良と比叡山を言う。
愚鈍…おろかでにぶいこと。
邪見…正しくない見方。考え方。
慳貪者…欲張りなこと。けち。
富貴貧賎姿によらん…人間みな平等を言う。差別がなく一様である事。
如来にまかせ…阿弥陀を言う。
摂取不捨…仏が人々を極楽に導いて地獄におとさないこと。
光明…阿弥陀如来の広大な光。
花の台…見晴らしのきく屋根のない美しい高い建物。浄土の台。
聴聞…信者が宗教家の説法などを聞く事。
宿業次第…前世に行った善悪の行為。これが現世の「幸」「不幸」のもとになる。
仏祖…仏教の始祖である、釈迦牟尼如来。
行住坐臥…歩行するとき、止まっているとき、坐っているとき、臥しているとき、これを四威儀と稱し、人間の日常生活この外に出ざれば、常々にと伝ふ意に用ひる。親鸞傅繪下には、「ただ常没情にしたがひて、更に不浄をも刷事なし。行住坐臥に本願を仰ぎ」等とある。
南無…仏に身も心もおあずけして、只一念に命号を称えておがむこと。
阿弥陀仏…数えきれない無量と言う意味。如来とは真如の世界から我々凡夫を救わんとあらわれた人の事。
機法一体…機と法、即ち救済される衆生の機と、救済する佛の教法とは、元から互に離るべからざる関係があるということ。即ち、阿弥陀仏の法と、衆生の機との関係について、他力回向の内容を示す宗義上重要なる名目の一つ。従来この機法の相對につき、能照所照の関係、信行不離の関係、往生正覚の関係及び六字の名號において、それぞれに一体の義を立てる。一に能照所照の関係における機法一体とは、衆生の信心は、佛の光明に照らされて発されるものとし、信心と光明の間には母子的関係ありとする。願々鈔に、「遍照の光明にはぐくまれて信心歓喜すれば、機法一体になりて、能照所照ふたつなるに似たれども、まったく不二なるべし」とある。二に信行不離における機法一体とは、信即ち衆生の信心も全く名號であるということ。六要鈔に、「即に仏願に帰すれば、機法一体能所不二にして、自ら不行にして行ずるの理あり」とある。三に往生正覚における機法一体とは、衆生の往生と、仏の正覚とは離るべからざる関係あることについていう。存覚法語に、「仏の正覚によりて成ずるが故に、機法一体にして能所不二なるいはれあれば」とある。四に六字における機法一体とは、南無阿弥陀仏の六字の名號の内に、衆生が仏を信ずる機も、仏が衆生を救済する法も、共に具足してあるをいう。而して、これには、六字を南無の二字と阿弥陀仏の四字とに分け、南無の二字は機を表し、阿弥陀仏の四字は法を表すとなす場合と、六字全体が機と法を表すとなす場合とがある。前者を二字四字の機法一体といい、後者を六字六字の機法一体という。御文三帖目第七通に、「南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。次に阿弥陀仏という四の字のいわれは、阿弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆえに機法一体の南無阿弥陀仏といえるのはこのこころなり」とあり、其の他御文に類文が多い。蓋しこれ救済体験から反省せられ、それが論理づけられた救済の内容である。
願行具足…浄土の往生についての願と行との具足を云う。他力救済の教にあたっては、仏の方より南無阿弥陀仏の六字の名號のうちに願行を具足して、これを衆生に回向し、衆生はその回向の名號を信ずる一念に、衆生の方の願行は具足されるので、衆生自身が自分の力にて起こし、行を励んで願行を具足せしめるのではないとする。
○誕生 叡山時代
親鸞聖人は承安3年4月1日(1173年)京都日野の里で御誕生される。父は藤原有範で元皇后大進、母は吉光御前、幼名十八公麿「松若丸」と言い兄弟は三、四人あったようである。4才で父を八才の時に母を亡くされ翌年養和元年(1181年)の春に京都東山青蓮院で出家される。出家後は比叡山に登り、20年間天台宗を学ばれる。身分は堂僧であったので、もっぱら常行堂につめて常行三昧を修されたという。常行三昧とは口に阿弥陀仏の名をとなえ心に阿弥陀仏をおもい浮かべながら本尊である阿弥陀仏のまわりを回る修行の事である。
○法然上人への師事と越後への流罪
29才の御年に天台宗の修業に行きづまりを感じられ親鸞聖人は比叡山を下りられる。下山後すぐに六角堂の救世観音に百ヶ日の参籠を行ない九十五日目に聖徳太子の霊告を得て法然上人の京都黒谷吉水をおたずねになり、そこで法然上人のもとから百々日かよいつづけ「生死をこえ出る道」を求められ、ついに法然上人の説く教えに従おうという堅い信念を持たれるに至った。
法然上人は末法の世の人間は知恵も力も劣っているからどんな修行も雑念が入って思うように続かず修業がたちきれてとても悟りが開かれない。だから阿弥陀仏の本願を仰ぎその救いの力を信じて念仏するよりほかに道はない。「この道だけが罪にけがれた者を、ひとしく生死をこえて出ることの出来る道である」と説いておられる。
この時より親鸞上人は範宴という名を綽空に改め法然上人の弟子となられる。
そして33才の時に法然上人から「選択集」の書写を許される。しかしその翌々年(承元元年 1207年)いわゆる承元の法難にあわれ法然上人と共に流罪に処せられる。
僧を罰する場合は一旦還俗させるという「僧尼令」の規定により親鸞上人は藤井善信となって越後国府居多ケ浜(上越市)に送られる。その時以来もはや僧でもない。またただの俗人でもないと言う事で「僧に非ず俗に非ずその故に禿の字をもって姓となす」と言われ、自ら愚禿となのられる。そしてこの流罪地越後で三善為教の娘「恵信尼様」と結婚され家族を営まれ二人の間には6人の子女があったと言われている。
○東国教化時代
建暦元年(1211年)親鸞上人は5年の流人の生活から解放されるが、京都へはお帰りにならず家族と共に関東に移り住み、常陸の稲田郷を拠点とし「上野」「下野」「下総」「武蔵」「奥州」を広く教化され、多くの弟子を育てられる。関東における親鸞上人の主だったお弟子を上げれば、下野(栃木県)の真仏上人覚信房、下総(千葉県)の性信房、奥州大綱の如信上人らをあげられる。
○京都へ帰洛後の親鸞
親鸞上人60歳の頃、20年余り住みなれた関東の地を去られ京都にお帰りになる。原因は定かではないが帰洛後は五条西洞院や三条富小路などを転々とされもっぱら著述に精力をそそがれる。寛元5年(1247年)親鸞上人75歳の頃主著「教行信証」を完成され翌宝治2年正月に「浄土和讃」「高僧和讃」230余首をまとめさらに「浄土文類聚鈔」「愚禿鈔」などを完成される。
また関東の門弟に教義をわかりやすく説明して送られた手紙もあり、これは現在「末燈鈔御消息集」と名づけられている。祖師聖人は京都で30年にわたる生活を過ごされたが弘長2年11月28日、90歳の生涯を静かにお閉じになられる。
そのときの様子を親鸞伝絵は「世間の事については全く口にされず、ただ阿弥陀仏の御恩の深いことばかりを申されており、声はと言えば、お称名ばかりとなえられ、ほかのことは全く言われなかった。」と伝えられている。
世間的な御利益よりも信心を重く考え、親子関係より正法を第一に優先された親鸞聖人の最後にふさわしい専修念仏の大往生である。
蓮如上人は応永22年(1415年)本願寺第七代門主存如上人の長男として、京都東山大谷の地でご誕生される。幼名「ほてい丸」永享3年(1431年)17歳の春に青蓮院で出家得度され「蓮如」と名のられる。同年4月比叡山に登られ6年間の苦行のうちに、22歳の3月叡山を下山され、奈良東大寺において8年間修業をされる。
蓮如上人29歳の時、本願寺にもどられ33歳までの5年間親鸞聖人の「教行信証」を熟読し聖教を書写して勉学求道にはげまれる。同年の夏に関東に行き、親鸞聖人の旧跡を巡拝し、各地の人々に御教えを伝えられる。長禄元年(1457年)6月18日、父の存如上人がこの世を去られ、越中井波瑞泉寺住職如乗上人(叔父)の推挙により第八代本願寺門主になられる。寛政2年11月(1461年)蓮如上人は宗祖親鸞聖人二百回忌法要をつとめられ、形ばかりの信者や坊さんでなくほんとうの信者であり坊さんであってほしいと心から願われるのである。
寛正6年(1465年)蓮如上人51歳のとき比叡山の僧徒らにより大谷堂舎を来襲し破却する。いわゆる寛正の法難といわれ蓮如上人はかろうじてのがれられ近江の堅田、金森などを強化をされながら文明3年5月(1471年)蓮如上人57才の時、本願寺と御縁の深い北陸の旅を思いたたれ越前の国吉崎大聖寺郊外の丘の上にお寺を建てて、北陸各地をさかんに布教される。また蓮如上人はこの頃御文(宗祖の教えをわかりやすく手紙の形式で語られたもの)や御和讃を沢山お作りになる。しかし上人の教えが繁栄していくにつれ、支配体制や権力からの解放を願う門徒衆が連帯し、一向一揆としてのエネルギーとなって行くとともに、それを利用しようと考える者が出て来たため蓮如上人は必死になってそれを防がれるが、しだいになかなかおさえきれなくなり、そのうえ文明6年(1474年)3月28日に南門付近から火災がおこり北門の方まで焼けてしまう。文明7年8月23日の夜、にわかに吉崎をたたれて、若狭、丹波、河内と伝道の旅をされ、河内の国出口の里に小屋をお造りになり3年におよび近国の布教にはげまれる。文明11年(1479年)蓮如上人は交通の便利な京都山科の地をお選びになり、本願寺の再建に着手され、同年11月、起工して、文明12年8月に本願寺御影堂が完成する。
文明13年三井寺にあずけてあった親鸞聖人の御木像を迎えて報恩講を努められる。時に上人66歳で大谷破却から15年後の事であった。文明13年6月には山科本願寺阿弥陀堂、14年正月には大門が完成する。
延徳元年(1489年)8月75才を迎え、後継を五男の実如上人にお譲りになり隠居される。隠居後も名号を沢山お書きになり、また近在地を教化される。明応8年(1499年)3月25日正午御年85歳をもって、眠るように静かに85年の生涯を真宗再興に捧げ尽くして如来の御国へ赴かれたのである。
・蝶六や 魚津まつりの 街流し
・鶯の 声になりたや 音頭とり
・梅雨明けて お盆近しと 蝉も鳴く
・ふる里へ 帰って明かす 盆踊り
・蝶六や 恋も芽生える 帰り道
・木の影で 昔偲んで 音頭聞く
・笠被り 声を張り上げ 玉滴
・花博で 川崎踊り 波にのる
・蝶六や 継いで残そう 保存会
・蝶六や 夜明けの烏の 音頭とり
作:宮坂彦成
○口説き節の詞章
口説き節の詞章は全国各地で二百集余りあるといわれている。口説きの分類は内容によって次のようになる。?仏教物、A祝儀物、B教訓物、C心中物、D地域の物、E伝承物、F世話物、G世間話的なもの、H情話好色的な内容のものなどに区別ができる。
昔から地元でよく歌われたまた庶民に親しまれてきた詞章を紹介します。
(上段)
さても一座の 皆様方よ
語り上げます 其の物語
古き文句に さて御座れども
花の都に 其の名も高き
聞くも哀れや さていじらしや
お吉清三の 心中話
所 京都の 五條の町で
音に聞こえし 与右衛門様は
お店は大店 糸屋の渡世
番頭手代が 二十と五人
下女と下男で 七人御座る
店は繁盛で 有徳な暮し
夫婦仲には 娘が一人
名をば お吉と名づけられまして
蝶よ花よと 御育てなさる
月日たつのは 矢よりも早く
やがて十一 十二の年に
琴や三味線 謡はいかに
茶の湯 生花 断ち縫いまでも
人に勝れし 利発の生まれ
年も十六 相成りければ
都一なる 評判娘
立てば芍薬 座れば牡丹
腰はほっそり あの雨柳
他になびくな なびかせまいと
親を泣かせる 道理で御座る
器量の良い事 誓えて見れば
小野の小町か てるての姫か
誠お吉は 正札付きよ
其のや評判 聞く親達は
心や嬉しく 良い婿取りて
家督譲りて 安堵をせんと
両親様には 心配なさる
お吉清三の この世の破綻
親の心は 露知らなくて
解けるえにしは この矢のように
子飼育ちの 清三と言うて
年は二十を 二つも越えて
今は番頭 勤めも堅く
商い達者で 男も良くて
情けかければ 近所の人は
清三糸屋の ありゃ白ねずみ
清三あるので 糸屋も繁盛
清三噂の 良き事なれば
今はお吉が 清三に惚れて
女子に生まれた かいあるならば
小さいうちから 心も知れて
主人忠義は 親にも孝行
親に孝行が よろずのもとよ
どうぞ清三と 添いたいものと
梅の立ち木に 願掛け致し
或夜部屋にて 思いのたけを
文を細かに 書きしたためて
清三袂に そろりと入れる
まじめ堅気の 清三であれば
なんとまよって 途方に暮れる
大事大事の 主人の娘
親の許さぬ 不義いたずらを
すれば主人に いい訳たたぬ
わしが連れなく 返事をすれば
死ねる覚悟と 書いたる文よ
もしやあやまち あるその時は
さぞや両親 御嘆きなさろ
そこで清三が 悩んでいたが
いとし可愛いに つい引かされて
何時の間にやら 恋仲なれば
深きちぎりも 見山の桜
隠す気なれど 現れやすく
訳のありげの 二人の素振り
それと感づく 母親始め
父の耳にも そろそろ入る
其こで母親 気をもみまして
もしや清三と 手に手を取りて
二人この家を 駆け落ちしたら
どこに寄るべき 渚の舟で
沖にただよう お吉が難儀
とどのつまりは 女郎か下女か
或日お吉を 一間へ招き
お前清三と 人目を忍び
為の約束 不義いたずらを
隠す素振りは 父様始め
其れと言わねど 心配致し
それで良いぞと 捨ててはおけぬ
今日が今より 清三が事は
思い切るきか 切らぬかお吉
しかと返事を 聞かせてくれと
言えどお吉は さしうつむいて
顔に袖当て 涙にくれて
なんと返事も 只泣くばかり
親の仰せを 背くのじゃないが
わしと清三の 其の中こそは
炭と紙とが 決めたがえんは
婿に直して 添わしておくれ
他の殿御は わしゃもちませぬ
娘心の ただ一筋に
言うも恥ずかし これ母様よ
聞いて母親 途方にくれて
奥の一間へ 清三を招き
そちを呼んだは 他ではないが
娘お吉は 跡取り娘
聞けばそなたと 訳あるそうじゃ
其れと聞いては この家におけぬ
何処なりとも 出てゆきなされ
口に言うても 目にもつ涙
わらじ銭だと 多分の金を
投げて与えて 縁切らせんと
わざと腹立ち 一間へ入る
後には清三 ただ茫然と
思い起こせば 身のあやまりと
一人すごすご 支度を致し
さらばこの家も もう今日限り
名残り惜しやと 出ていきまする
それについても 幾多のお金
御恵み下さる 御恩の程は
たとえ死んでも 忘れはせんと
手をば合わせて 只伏し拝み
家に帰りて 暫しの合いも
忘れかねたる お吉の姿
中段
読んで残した 其の段続き
又もこれより 読み上げまする
好いて好かれた お吉に清三
思いがけなく 生木の枝を
さきし如くに 遠ざけられて
清三所在は 大阪町の
難波新地の 我家のかたで
思い切られぬ お吉が姿
いとし可愛いが 病となりて
食うもすすまず 痩せ衰えて
ついに焦がれて あい果てまする
お吉事とは 夢つゆ知らず
番頭清三は さぞ今頃は
どこにどうして 御わする事か
逢って詳しく 私が心
胸にありたけ 話を致し
優しいお言葉 聞きたいものと
思い続けて ついうつうつと
夢かうつつか 清三の姿