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富山県魚津市の郷土民謡 魚津せり込み蝶六保存会のホームページです。

TEL.0765-23-0833

〒937-0041 富山県魚津市吉島1-12-11

盆踊りの歴史recruit


<目次>
盆踊りの歴史
時宗の開祖、一遍上人について
仏教の伝来
盂蘭盆会について
信仰と蝶六
盆について
口説き説について
蝶六音頭に歌われている歌詞
音頭について

囃子について
擦絃楽器の由来
蝶六川柳
胡弓と越後瞽女について
越中の盆踊り
魚津地方の盆踊り
舞台音頭の起こりと輪島節
蝶六音頭の内容について


盆踊りの歴史Top ▲

○盆踊り唄と盆唄について

盆踊りと言うと同じように考えられてきていますが、正確には盆踊り唄と盆唄の違いははっきりしていたと謂われています。

○盆踊り唄

仏教以前からの固有信仰「農耕儀礼の季節的行事」の中にあったお盆行事が、鎌倉中期以後都を中心に全国的に流行した。(「空也上人」や「一遍上人」等によって始められた)その念仏踊りの習俗と、これに前後して神送りの踊り、これが慶長年間になって伊勢踊りと呼ばれるようになりました。

この二つの行動文化が次第に習合され、盆の神送りとなり、やがて精霊を迎えたり送ったりする魂迎えや魂送りの踊りへと移行して長い戦国の世も終わり、江戸時代の初期当たりから全国的習俗として定着してきたものです。

通常お盆の13日〜16日にかけて、お宮、お寺の境内や町村の広場で老若男女が大勢踊り、盆に招かれてくる精霊を慰め、またこれを送る踊りと考えられています。

○踊りの種類

1.流し踊り…魂送りの踊り

2.輪踊り…供養の踊りとされています

 その他豊年祝や予祝いをかねて豊年踊りと呼ぶ所もある。地元魚津では祭礼豊年踊りがあります。各地に伝わるおもな念仏踊りには蝶六踊りを始め、唱名輪踊り・亡者踊り・切子踊り・灯篭踊り・三味踊り・おしまこ踊り・祝儀踊り・墓踊り等があります。

○盆唄

 本来の盆唄というのは盆行事の精霊供養歌謡の事で、子供が管掌するものと謂われていたようです。まだなにものにも毒されていない清浄な子供の声が、一番先祖の御霊が喜んでくれるものとされていました。

 童謡と書いて「わざ唄」と呼んでいた古代からの習俗が継承されたもので、関西地方の子供達が歌っていた「おんごく」とか、秋田県の童謡「たなばた」地元富山県の「さんさい踊り」等は、盆歌謡の母胎となっていると謂われています。

 

時宗の開祖、一遍上人についてTop ▲

 一遍上人幼名松寿丸、延宝元年(1239年)鎌倉幕府成立に大功のあった伊予の名門の一族として生を受けらました。

 父河野七郎通広、十歳の年に家出、浄土宗の法然上人の弟子、西山派の祖、証空上人の直弟子となりました。(親鸞上人と証空上人は兄弟弟子)

 文永11年頃、一遍上人は踊り念仏を唱えられ、各地を布教される。踊り念仏の開祖と謂われています。

 

仏教の伝来Top ▲

 仏教の古くに「昔」インドにおこり、中央アジアを通って「前漢」の末に中国に広まり四世紀の後半に朝鮮に入って来たといわれています。

 日本にこれが伝来をした年代は日本書紀によると欽明天皇の13年西暦552年とされている。又別の説によると西暦538年とも伝えられています。

 

盂蘭盆会についてTop ▲

盂蘭盆会とは正しくはお盆のことで語源は梵語「ウルランバーナ」というのであって、漢字をあてて読んだのが盂蘭盆会であり、それを縮めて日本では「盆会」又「お盆」と称しています。

ウルランバーナとは日本語に訳しますと倒懸(とうけん)という意味になります。

倒懸とは、1さかさにかけること、2さかさまになること、3手足を縛ってさかさまにすること、転じて非常に苦しみのたとえと訳してあります。

ただ単に、お墓参りをして祖先の供養をするのみでなく、今の自分が倒懸していないかに気付く事が大切です。蝶六音頭には、その倒懸を象徴的に歌った目連尊者地獄めぐりの本があります。昭和33年魚津市大海寺野新、大沢利二(明治34年2月2日生)氏宅に保存されていたもので、当時大沢氏の話によれば、昔魚津市東城、岩寺弥松(明治2年1月3日生)氏宅(お寺)に保存されていたものを引き写したものといわれています。古語で書かれた大変難しい長編の段ものです。

※付記…目連尊者地獄めぐりの本は保存会で保管していたが、貴重な本につき現在は市の民族資料館に保存してあります。古語で書かれた大変むずかしい長編の段物です。

 

信仰と蝶六Top ▲

 高祖聖人藤原氏へ、誕生まします松若君の、わずか御年9歳の春に、輿や車を乗り捨て給い、「二十八日口徳より」これは第八代蓮如聖人が北陸布教の際にお作りになった御和讃といわれている。浄土真宗の御満座には必ず念仏と共に唱えられている。

 せり込み蝶六の代表的な詞章は二十八日口徳であり、又どの詞章を見ても一向宗の味が非常によく出ている。越中の国は親鸞上人の御化導地であり娯楽の少ない庶民には多数の念仏の信仰者があり、多く聖人の御遺徳を偲んだ。毎年お盆の季節ともなれば踊っては楽しみ、楽しみながら口説きを聞き、聞く事によって心の糧を養いそして倒懸への反省をと心掛けた。

 私達の祖先の叡知は素晴らしく、今日にして猶(なお)も脈々と生き続けていることを今一度見直して学ばなければならない。

 なお親鸞聖人の命日は弘長二年十一月二十八日であります。

 

盆についてTop ▲

民族学では盆の行事の起源を遠い古代においている。一年の中場の日に日頃世話になってきた人達に、盆の上にご馳走を山盛りにして持ち届けるという習俗があり、その器の古語を盆と呼び、それを用いる季節までも盆と言うようになった。

 又、わが国に仏教が伝わり、その大衆化と共に盂蘭盆会と合わせて現在のお盆と称するようになった。

 

口説き説についてTop ▲

 江戸時代の終わり頃、越後国沼郡中条村字新保、広大寺から発祥したといわれている。

 新保広大寺節が全国に流行したその理由は、元禄年間に起きたと謂われている。広大寺、五世廊文和尚と寺の門前豆腐屋のお市という若後家との捏造された情事、これは同じ集落の庄屋市左ヱ門の弟、平次郎が家柄をたてに、お市を見染め無理に再婚をせまるが、お市が軽くあしらった。それは、広大寺の和尚のせいだと逆恨みした。和尚はさっそく庄屋の市左ヱ門に平次郎のことを話すと、弟の無法ぶりを叱った。平次郎は更に和尚の、ある事、ない事を唄の文句にして、毎年春頃になると、新保あたりを廻ってくる瞽女達にお金を出して頼み、歌いまわってもらったと言う。

その歌詞は、

・新保広大寺の和尚がお市の尻なでたああいやらしや

・新保広大寺に、産屋が建ったお市もうじき子供ができる

等の歌詞が現地に残っている。これが江戸や京都で大流行して、後に踊りもでき「広大寺踊り」として全国各地に定着した。

 広大寺系統といわれるものに、八木節(群馬県)、じょんがら節(青森県)、最上口説き(山形県)、道南口説き(北海道)、殿さ節(埼玉県)、中国地方では、神楽せり唄、ヤンレー節などがあり、富山県ではせり込み蝶六が代表的である。

 また、せり込み蝶六音頭には、新保広大寺の和尚を恨んで歌った歌詞が今でも残っており、毎年盆踊りにはよく歌われている。

【蝶六音頭に歌われている歌詞】

 越後広大寺にまめなかと聞けば、まめで御座らん木がわるござる、何がやまいじゃと広大寺に聞けば、背戸の千本の杉枯るがはやまい、一本じゃなす二本じゃなす千本の杉が枯、一つの枝から二つの枝までも三や四や五や六の枝までも、七や八九や十までも蜂に刺されて千本の杉枯る。

 

音頭についてTop ▲

 音頭という言葉は長い年月の間に、原義から相当意味が移り変わっている。

 元来雅楽に於ける名称で雅楽の音頭と言えば唄にしても、管弦楽器の演奏にしても必ず最初の一説を独奏、独唱する役または人をさし、それに続いて大勢が、合唱・合奏したのである。従って音頭は主たる役であった。この解釈が後の民謡に投影し、民謡では集団労働声曲の「主たる」役ということになる。特に大人数の労働に伴う唄には音頭が存在した。その代表が木遺り音頭(唄)で、運ばれる木材等の上に音頭取りが立って唄の最初の一節を唄うと大勢の曳子達が唱和しながら、木や石あるいは綱を引いたのである。この使い方は今も一般の生活の中に、事を行うのに発起人の形をとる事を「音頭取る」という言葉として残っている。全国各地には盆踊り習俗そのものを音頭と呼んでいる地方も多い。

また、茶道では茶道という役が入り、音頭役を意味する。

 

囃子についてTop ▲

囃子は歌の中にあって調律や意味を整えるために、多くは繰り返されて用いられる詞章で「映やす」「栄やす」「林す」等の字が当てられる。

囃子には二種類あり、一つはまったく意味を持たない合間的なものと、その二は意味を持つひとまとまりの言葉を反復して用いるもので、これらの中には元来まったく詞章として意味を持たなかったものや、意味があったが、口伝による伝承によりその意味を失ったもの、詞章が改定されながら変化していったものとがある。

踊りという言葉の語源Top ▲

 女性があやしげな品を作って、男の心をひきつける。つまり「男をとる」という。

 古代母系家族保存的行動文化「男どり」が転化して、「おどり」となったと伝えられている。

 

擦絃楽器の由来Top ▲

 今日胡弓といえば、東洋擦絃楽器の総称となっている。中国では胡琴という名称が唐の時代(7〜9世紀)に現れているが、当時は単に胡人(こと)の絃楽器といった意味合いで、琵琶のことをいっていた。

 元代(13〜14世紀)になって今日のような擦絃楽器としての胡琴が現れている。その後、一撥絃、擦絃の二系統の胡琴としてそれぞれに発展していった。

 元の国史によれば、胡琴は宮廷の宴楽として当時はよく用いられたという。やがて朝鮮に入って中国の俗楽楽器「ニ胡」「堤琴」などが改良され「けい琴」となり、この中国民間楽器が朝鮮では雅楽楽器に用いられていた。

 我が国に伝わった起源は、永禄年間(室町時代末期)沖縄を経て三線(後の三味線)と共に伝わってきたといわれている。その後泉州の境に入り、江戸時代の初期頃からは地方の遊芸人らによってひろめられたという。

 種類としては、我が国では三絃と四絃との2種類に限られて、歴史は三絃の方が古い。四絃とは三絃の最も細い線を更に1本加え、同音に調律し復絃として使用する。その点琵琶調絃法と同じである。宝歴7年(1757年)当時、江戸新宿に住む藤植検校という胡弓の名人がいた。藤植は並みの胡弓とはちがい、四絃の糸をかけて当時各地を弾いて歩いたという。その後、藤植検校達の手によって胡弓音楽が次第に芸術性が高められ、胡弓の組唄や本曲が数多く作られ、又それとは別に人形浄瑠璃の伴奏である義太夫節と並行して、部分的に三味線と合奏し哀切気分を出すのに役立てられていた。その他大道芸では、有名な伊勢参宮の(間の山節伊勢音頭の母脂)の伴奏に欠かせなかったといわれている。

 大正13年ごろになって田辺尚雄の考案により、見砂東楽氏が製作したのが玲琴であった。胴の部分は素材をバイオリンと同じで、竿の部分は三味線に似せ、胡弓本来の音色を保ちながら音域を上下に広げ音量がいっそう高まったものとされている。

 この玲琴は新日本楽器の新邦楽器として欠かすことの出来ないものとして、昭和の初期に用いられていたが、第二次世界大戦で焼失するとともに現在はなくなった。

 大正末期の当初は特に追分節の伴奏によく用いられていたという。

 

蝶六川柳Top ▲

蝶六の 法り音頭に 手を合わす

よりどりや 蝶六娘の 嫁定め

蝶六に 駐車の場所も なかりけり

踊り子も いつしか覚え 古代神

若音頭 海に千鳥か のどならし

背広きて 踊る季節の 下椿

川魚も 踊る今宵の 羽根曾かな

さんしきの 出番待つ身に 茶碗酒

踊り子の 皆美しき 秋の月

新入の 流儀にかなう 三年目

蝶六や 熱もさめぬか 長ばなし

飛入りは ほめる間もなく 叱られる

淋しさも 口説き文句の 名調子

蝶六や 一度唄って やめられず

音頭取り 囲えこたつや研究会

旅人も 踊って蝶六 好きとなり

作:窪田見次

 

胡弓と越後瞽女についてTop ▲

 富山県にはおわら節、麦屋節をはじめ数多くの民謡に胡弓が入れられている。その理由は胡弓の名人が多かった事、それは義太夫節や越後瞽女達の影響があったからと推察できる。胡弓の名人八尾町おわら保存会の若林久義氏(明治42年2月14日生)の話によれば、最初おわら節に胡弓を使ったのは松本勘玄(若林氏の師)という義太夫の師匠だそうである。松本氏は越後瞽女が胡弓を弾くのを聞いて、おわら節に入れたのが明治30年頃といわれている。

 また富山県には幾つかの瞽女節が残っており、西砺波郡福岡町山岸俊正氏宅には越後瞽女に関する古文書が保存してあり、安成年間(1845年〜1860年)に福岡地方を歌い歩いた越後瞽女の唄が記録されている。

 地元魚津市では、上野方大海寺新荒川四郎氏(大正12年6月17日生)宅に越後瞽女達が持ち歩いた当時の越後口説きの本が保存されている。

 江戸末期から明治にかけて、富山県内を訪れた越後瞽女達は胡弓を弾きながら、長編の「心中物」を口説き節風の曲節で各地を歌い歩き、大正頃からは信州瞽女や加賀瞽女達も歌い廻っていたという。

 当時瞽女達の中には、唄や胡弓、三味線の上手な芸人が多く、県内の人達も手ほどきを受けた人が多数いたと伝えられている。

 魚津地方では大正時代上野方村石垣で「千代」という瞽女が川崎音頭に合わせて胡弓を弾いたのが初めてといわれている。(魚津市石垣平、菊川与次郎氏の話 明治29年3月3日生)

 せり込み蝶六保存会に胡弓が初めて入れられたのが、昭和39年5月9日近畿東海北陸ブロック民俗芸能大会(三重県文化会館)に出演した際に、魚津市三ヶ島津繁夫氏(昭和11年8月20日生)が弾いたのが初めとされている。

 その後魚津市天神野新 森久一郎(大正2年3月31日生)が引き継ぎ、現在は滑川市栗山清水清治(昭和8年12月23日生)、黒田勇治(昭和9年11月23日生)両氏が引き継いでいる。

※付記…瞽女とは目の不自由な女性の旅芸人で、胡弓三味線などを弾きながら口説きの唄を歌って全国各地を歩いた人達のことをいう。

 

越中の盆踊りTop ▲

富山県内に伝承されている盆踊り唄は多種多様だが地域的に見た場合その形態や内容が似通っている。例えば、「はねそ」「蝶六」「古代神」「松坂」は下新川郡、黒部市、魚津市、滑川市、中新川郡、富山市に分布している。

 また「やんさ」「野下」は婦負郡、射水郡、新湊市など広い範囲に及んでいる。砺波地方の「ちょんがり」五箇山地方の「古代神」も同種の唄である。

 県内一円に分布しているのは、江戸時代越後瞽女達による口説き節「古代神」伊勢音頭の一種「川崎」「加賀崎」の影響によるものである。近年は盆踊りの最後に越中おわら節を踊りの仕舞に組み込む様になった。

 

魚津地方の盆踊りTop ▲

○江戸末期・明治時代・大正時代

 毎年お盆になると祖先の霊を迎え供養し、また豊年を祈願して夜の明けるまで踊られる。その当時は電気はもちろんなく、お宮の境内お寺の広場では松明や高張り提灯などをつけ、また音頭とりの声が漏れないように、境内や広場の周りをコモやムシロで巻いた。

 各部落の老若男女が思い思いの衣装で踊り、やがてドブ酒の酔いがまわれば、仮装「チョロケ踊り」をして踊る人も多かった。音頭取りは深々と笠をかぶり(声が漏れないよう)踊り子の輪の中に入り一人20分〜30分音頭を取る。大変な努力が必要で全身汗びっしょりになる。「砂糖湯」や「黒豆」を煎じて飲み、十日二十日と各村々を歌い廻っていた。大正10年(1921年)まで石油ランプで生活していた各農村にもようやく電灯が入りだし、明るい光を与えた。

○昭和時代(戦後)・平成時代

 民衆・娯楽として最も大きいのは盆踊りである。8月15日を中心に各部落ごとに恒例の日があり、今日はどこ明日はどこの部落と誘い合い、浴衣を着た若い男女から部落の老人子供に至るまで、宮の境内やお寺の庭で行われる。盆踊りに群れ集いいくつもの丸い輪になった。

 踊り手の内側には「むしろ」や「ござ」を持った見物客が座を占める。こうした間にも年頃の息子や娘を持った親には、嫁選び婿選びの絶好の場となり、盆踊りの行き帰りの若い男女の間には恋の芽生える事もある。

 盆踊りを主催するのは、各部落の青年会で盆踊りが近づくと何回も練習会を開いて踊りを盛大にするように心掛け、また酒の上、喧嘩がつきもので、当日は他村の踊り壊しや喧嘩が起こらぬように提灯を持ち、絶えず廻って監視した。

盆踊りの費用はほとんど寄付金「はな」で賄われ、とくにその年に嫁を迎えた家では「はな」の金額が多かった。現在も同じである。

 

舞台音頭の起こりと輪島節Top ▲

舞台音頭とは座敷音頭の事であり、昔は盆踊りが終了すると、その部落の世話役の家などで村人とともに酒盛りが必ず行われていた。各音頭取りは赤御膳で祝れ、その席ではじめて歌う唄は「場習らし」という、日出度節(輪島)を歌ったと謂われている。この輪島節は明治初期頃、能登の輪島より鮮魚商人、漆器売りらによって伝えられて来たと言う。

 当時音頭の名人といわれた出村の源助がその輪島を元にしていろいろ座敷唄を普及したと伝えられている。

「菊川与次郎氏の話」(明治29年3月3日生)

 この蝶六音頭も名人源助の構成により、「前唄」「後唄」が組み込まれた。

 現在保存会で歌われている音頭はこの座敷音頭であり、座敷音頭の事を今では舞台音頭と言っている。

 

蝶六音頭の内容についてTop ▲

 本来口説きとは長編の語り物を歌い、その物語の中心の思いを表現し、見る人、聞く人そして踊る人に感動を与えて歌うのは正調な口説き節である。音頭に踊らせ音頭、聞かせ音頭の要素があるが、それよりもまず第一に声の訓練をしなければどうにもならないだろう。普通の民謡とは違い、一度歌えば二十分は歌い続けなければならず、盆踊りの季節ともなれば毎夜一週間あまりも続けて歌わなければならない。三日や四日歌って声が「つぶれる」人は音頭とりとは言えないだろう。

 さて音頭には踊らせ音頭、聞かせ音頭の要素があると説明したが、@踊らせ音頭とはリズムの調和であり、A聞かせ音頭とは文句内容の充実である。リズムが悪いと踊りにも活気がなく、非常に踊りにくいので踊り子達に嫌われる。又詞章内容が欠けていると何を歌っているのか意味がわからず聞いている人達に好かれない。この様に一つの要素が欠けてもまずく、完璧にするまでは大変努力が必要である。

 蝶六保存会では、音頭取りの育成の条件として、声の訓練が第一条件であり第二にはリズムの調和ととりくみ(こぶし)であり第三は詞章をしっかり覚え、徹底して歌いこむ事である。この三つの要素を習得して初めて音頭取りに感情(味が出る)が生まれ踊る人聞く人に感動を与える。

 なお舞台音頭では、地方(楽器)との調和が非常に大切である。

○道下地区と下村木の由来

 本地区は西北に位置し、旧国道が境界となっている。南西は魚津町に接し、東北は経田の平野に連なり西北は直接富山湾に臨む長方形の平地で、そのほとんどが水田地帯であった。「仏田」「仏田又新」「青島」「本新」「釈迦堂新」「北鬼江」「北中」「村木町」「岡経田」の九村からなりたっている。明治9年、地租改正の際に道下地区より分離して下村木となった。

○村木・火の宮地区踊りの由来

 明治の初期頃から9月20日の秋祭りになると毎年踊り「輪踊り」が盛大に行われていた。村木赤川の住人、長九郎は音頭の名人、出村の源助の弟子で、声もよく大変人気があったという。

 さて、座敷踊りの由来だが、村木・火の宮の住人、先名米次郎(明治17年4月10日生)中森重次郎(明治26年2月18日生)両名が初代といわれている。

 踊りの好きな二人が各地を踊り歩き見習ってきたといわれ、また自分たちで工夫して振り付けしたと伝えられている。

※踊りの種類

手踊り・・・「勢振り」「山中」

扇踊り・・・「勢振り」「けはん結び」「姿見」

その他、「菅笠」「提灯」「刀」「たすき」「花笠」踊りなどがある。又蛇の目踊りは昭和に入ってから振り付けされた。当時の踊りの衣装は、あみ笠、襦袢、たすき、前掛、白足袋、ぞうりであった。

○村木火の宮青年会結成

 昭和14年には火の宮青年会が発足し、踊りの練習にも熱が入り又指導にも非常に厳しかった。

 当時盆踊りは夜の明けるまで行われており踊りも次第に盛り上がる頃には扇や笠などを持ち、輪踊りの中に入り、「踊るだら」、「音頭取るだら」、「それ見るだら」、「三んだら」が一体となって朝まで踊り明かしたのである。

 昭和21年5月には富山県民謡踊り大会が旧県庁内広場で行われ、火の宮青年会が初出場し堂々の三位に入賞した。又当時の審査員であった民謡研究家町田嘉章先生が、「せり込み蝶六」命名される。(保存会 浦田晃氏の話 魚津市末広町 大正15年9月25日生)

○上野方の由来

 本地区一帯は未開の原野であったが、永宝元年(1673年)10月開拓工事のため藩主前田綱紀が開拓奉公の市橋武左ヱ門および栗田甚太の両名に当地の出張を命じ、付近の農民を集めて開拓したのが上野方「大海寺野」「大海寺新」「苅安」「石垣」「大谷」の起こりといわれている。

昔から踊りの盛んな地区で有名であり、現在に至っても毎年お盆行事として各村々で盛大に踊られている。

○上野方大海寺新村踊りの由来

 明治の中期頃より毎年秋の祭礼になると、新川地方一帯に越後の旅芸人達がよくおとずれ「奴子踊り」「広大寺踊り」などめずらしい踊りを沢山披露した。踊り好きな盛永宗右衛(明治4年5月7日)が非常に感激しその踊りを見習い工夫創作し、後世に残したのが大海寺新村に伝わる踊りの初めといわれている。

 大沢利二氏の話(明治34年2月2日生)その後、宮坂元次郎(明治24年5月8日生)、宮坂知一(明治26年9月15日生)両氏が引き継いだ。当時はお盆はもとより近郷近在の祝い行事などあれば、毎夜地主の納屋などで練習を重ね各地に出演していた。昭和初期頃より村の青年会が中心となって踊りを伝承し昭和30年まで続いた。現在はせり込み蝶六保存会によって引き継がれ、昭和62年10月18日村の神社外壁改装祝いに32年ぶりに保存会によって踊りが奉納された。

 踊りの種類には手踊りを始め、扇踊り、菅笠踊りなどがある。踊りの衣装(明治・大正時代)襦袢、はち巻、タスキ、手甲、前掛、黒足袋であった。

・踊り初代 盛永宗右衛(明治4年5月7日生)

・二代目 宮坂元次郎(明治24年5月8日生) 宮坂知一(明治26年9月15日生)

・音頭初代 宮坂由次郎(明治7年4月2日生)…後に北海道に渡り、蝶六音頭取りとして永く活躍された。

・二代目 盛永元次郎(明治24年4月11日生)

・三代目 大沢利二(明治34年2月2日生)

・四代目 宮坂彦成(昭和15年9月17日生)

※付記…明治30年頃より北海道旭川方面でも、越中音頭として毎年盛んに踊られていた。昭和57年保存会より三井氏宮坂の盆踊りテープを送る。現在も学生により舞台踊りが踊られている。保存会では扇子など時々学校に送っている。

○上野方石垣村の踊りの由来(川崎蝶六)

 江戸時代から明治にかけて伊勢神宮の参拝者が全国各地から沢山訪れた。

 当時石垣の村人達も他国への旅として伊勢詣りは何より楽しみで、川崎とか古市の茶屋に泊まり、道中音頭や伊勢踊りなどを見て大変感動したと言う。唄や踊りの好きな早勢宗左衛門(戸籍廃業済付不明)は伊勢詣りの土産として持ち帰り、自分独自の振付をし後世に残したのが、石垣に伝承する踊りの初めである。(菊川与次郎氏の話 明治29年3月3日生)「川崎音頭」「古代神」に合わせて踊るその衣装は勇ましく、赤いたすきにかならず編笠と手甲を用い、編笠には「男蝶」「女蝶」といって五文紙(奉書紙)と金紙を祈って紅白の水引で飾り付け、手甲の背には鈴をつけて動かすたびに音をひびかせ、その踊る様子はこれぞまさしく極楽蝶が舞うかの様であり、見る人の心も踊らすす立派なものである。盆踊りはもちろんの事、各地方から出演依頼などあれば、毎夜「倉庫」「納屋」などで練習を重ねて出演したといわれている。

 昭和の初期頃からは早勢菊一氏(明治41年3月1日生)を中心に村の青年団が引き継ぎ、昭和41年魚津神社境内での蝶六競演大会まで踊られていた。現在は、魚津せり込み蝶六保存会が引き継いでいる。

・踊り初代 早勢宗左衛門(戸籍廃業済付不明)

・二代目 早勢菊一(明治41年3月1日生)

・三代目 早勢昭一(昭和9年1月27日生)

・音頭初代 早勢彦太郎(明治16年5月28日生)

・二代目 菊川与次郎(明治29年3月3日生)

・三代目 早勢秀雄(昭和7年5月16日生)

踊りの種類…平踊り、扇踊り、たすき踊りなどがある。

※片貝東城村に伝わる踊りは石垣村の流れをくむ踊りである。明治39年、大正天皇が皇太子殿下であられた際、旧魚津中学校前で台覧供しする。Top ▲

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